Kuwashihoko Shrine
Introduction
元和5(1619)年7月21日、島津家第17代当主義弘公は86歳で鹿児島の加治木屋形にて逝去されました。御遺体は福昌寺に埋葬され、神主影は加治木本誓寺と伊集院妙円寺に祀られました。
本誓寺では境内に御霊舎を造営し、多くの参拝者が訪れていました。しかし、明治期の寺院廃止の命により廃寺となったため、直ちに加治木屋形内に社殿を造営し、精矛神社と称することとなりました。
大正7年、義弘公の300年祭にあたり、加治木町日木山の公の別荘跡地に社殿を移転し、同年11月に御遷座が執り行われました。これが現在の精矛神社です。
About the Enshrined Deity
尚古集成館蔵
精矛神社の御祭神は、島津家第17代当主(諸説あり)とされ、勇猛な武将として名を馳せた島津義弘公です。「鬼島津」とも呼ばれ、数々の戦でその武勇を示されました。特に関ヶ原の戦いにおける敵中突破は広く知られています。
晩年を加治木で過ごされた義弘公は、この地の歴史にとって非常に重要な人物であり、精矛神社は、その義弘公の御霊をお祀りし、その武徳と遺徳を偲ぶための神社です。
和暦
島津義弘公のあゆみ
天文4年(1535)年
薩摩国伊作亀丸城に生まれる。第15代貴久公二男。母、入来院禅正重聡の女子。
初め又四郎忠平と称す。後、将軍足利義昭より諱を賜り義珍、後に義弘。
天文23(1554)年
岩剣城の戦いにて祁答院氏らと戦い、初陣を飾る。
永禄3(1560)年
川上経久より乗馬の相伝を受ける。
元亀2(1571)年
同氏より弓馬の相伝を受ける。
元亀3(1572)年
木崎原の合戦 伊東氏が加久藤城を急襲するも木崎原にて壊滅。
父貴久公没す。六地蔵塔を建て、敵味方区別無く戦没者を手厚く供養した。
天正6(1578)年
耳川の合戦
大友宗麟、伊東義祐連合軍6万の軍勢を島津方4万の軍勢で戦う。
天正12(1584)年
龍造寺氏を肥前島原に討つ。
天正13(1585)年
守護代となり、八代を拠点に肥後・筑紫へ進出。
天正14(1586)年
岩屋城の戦い
筑前高橋招運を討つ。
天正15(1587)年
根白坂の戦い
豊臣秀吉の和睦勧告を無視して豊後大友義統を攻めた結果、大友氏は逃れ、大友氏の要請を受けて豊臣軍が九州を征伐。
天正20(1592)年
朝鮮出兵(文禄の役)
義弘公と久保(嗣子)、栗野松尾城より出陣。
碧蹄館の戦い、李和松率いる明軍と戦う。
文禄2(1593)年
久保巨済島にて急死。代わって家久が出陣。
慶長2(1597)年
朝鮮出兵(慶長の役)。帖佐城より出陣。
慶長4(1599)年
紀州高野山に高麗陣敵味方供養塔を建立。
「惟新」と号す。
庄内の乱、伊集院忠真が興すが家康が調停に入り、島津方へ帰順。
慶長5(1600)年
関ケ原の合戦
桜島の藤野に蟄居
慶長7(1602)年
本領安堵、隠居
慶長11(1606)年
平松城へ移る。
慶長12(1607)年
加治木屋形へ移る。
元和5(1619)年
7月21日
加治木屋形にて死去。
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精矛神社は、地域の歴史と文化を伝える貴重な存在であり、島津義弘公、そして加治木島津家の歴史を後世に伝えるための大切な役割を担っています。
つきましては、神社の維持・運営、境内の整備、そして伝統文化の継承のため、皆様からの温かいご奉賛を賜りますよう心よりお願い申し上げます。
皆様のご支援が、この由緒ある精矛神社の歴史と文化を未来へと繋ぐ力となります。何卒、ご理解ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。
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支店名
一七九(179)支店
口座番号
当座 0169763
受取人
シユウ) クワシホコジンジャ
(宗教法人 精矛神社)
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